05


 

 鏡の中を覗き込めば。

 こちらを見つめ返す、記憶の中に留まる母親の面影を宿した顔。限りある愛された記憶をそこから見出して、ウィルは揺れる己をひとつずつ肯定していく。

 ……ああ、嫌だ。

 些細なことで揺れる脆弱な精神が嫌で嫌でしょうがない。見た目と中身の相反がそのまま精神へ作用されている、なんて甘い考えはもっと嫌いだ。

 しっかり地に足を付け、何があってもあの二人を守ってやれる。そんな主人になりたいとずっとそう考え続けている。

 ――だって。

 あの父親が初めて自分に「くれた」。

 どんなに泣きわめいても、手を伸ばしても、ただ冷めた目で眺めるだけだった男が。

 はじめて、与えてくれた。

 だからあの二人は、ウィルにとって特別で唯一。。

 だから絶対に守るのだと心に決めた。いい主人になると二人にも誓った。

 

 ……だって主人とはそういうものなのだろう?

 

 守られた日々は昔過ぎてウィルには正解が分からない。

 

 

 ※

 

 

「ねえ、きみがここへ来てから僕は、きみが笑ったり泣いたりするのを見たことないように思うんだ」

 

 その昔、ウィルはずいぶんと泣き虫だった。泣き虫なんて可愛らしく言うには歳を食っていたが、見た目的には問題が無かった。

 事あるごとに傷つけられる身体は再生を繰り返し、その反作用か成長速度が同年代から著しく遅い。息を吹き返すたびに大事なものを知らぬうちに欠いているのではないかと、恐ろしくなることがある。

 例えば記憶。

 今は大丈夫だと思っているけれど、やはり知らぬうちに無くしたものがあるのかもしれない。それが自分では分からないことが一番に恐ろしい。

 失いたくない記憶の一つがこの、アッシュとのやりとりだ。

 その時もウィルは泣いていた。

 泣いても誰も助けてくれやしないのに、涙の方が勝手に零れるのだ。

 昔は痛くて泣いて、助けてと叫んで泣いて、とにかく辛くて泣いていたけれど、その頃ははもうなんで泣いているのか分からなくなりつつあった。

 ただ泣いている姿を他者に見られたくなくて、場所だけは選んでいた。

 ちょうど邸に新しく従者――レイとアッシュを迎えたので、尚更そんな情けない姿は見せられないとも考えていた。

 木の陰でこっそり泣いていたら、遠くにアッシュの姿を見つけた。まだ向こうは気付いていない。ウィルは急いで涙を拭った。

 父から与えられた従者――双子の片割れのアッシュは、姉の方と違ってどうも表情に乏しい。

 ……あの子は泣いたりしないんだろうか。

 主人が従者を慮るのは当然だが、その時は単純に興味の方が勝っていた。

 返事はさらりとしていた。

「そういうのは必要ないと思って全部捨てました」

「捨てた? どうやって」

 そんなのできるわけがない。

 見た目はそう変わらないが自分よりずっと年下の少年をウィルはまじまじと見つめ返す。

 だって自分は、もうやめたいと思うのに、涙の方が勝手に流れてきてしまう。

「そういうのは、ねえさ――レイがやればいいと思ったから、全部捨てました」

 アッシュの返事は変わらず淡々としていた。

 本当に嘘ではないのだろう。

 この邸に来るまで正式な名を持たなかった少年。

 双子というのに、彼は姉の影だ。本人がそれを認めて、そのあり方に満足している。

 ……そうか、満足。

 自分に足りないのはそれだ。

 涙は不満の証。

 自分はまだ諦め切れていないのだ。

 もう二十歳も近いというのにまだ、かつての日々が戻ってくるのではないかと、両親が自分を見てくれるのではないかと期待している。頭の隅ではわかっているのだ。そんな日はもうないのだろうと。だというのにしがみついてしまう。

 でもきっとアッシュは日々に期待などしないのだ。

 大事なのは姉のことだけ。

 それさえ守れたらあとはどうでも、きっと自分のことさえどうでもいい。きっとそんな考えで生きている。

 それはなんとも身軽に思えた。

「…………そっか」

 礼を言って、彼とはそこで別れた。

 日々に期待しない彼はきっと主人たるウィルにも期待していない。その閃きはウィルの胸を抉った。

 だってそれは、まだアッシュの視野にちっとも入れていないということで。

 いい主人になりたいと足掻く己が莫迦みたいに思えてくる。

 ……でも誓った。

 やめられるわけがない。

「そうか、だから捨てればいいのか」

 ようやく悟った。

 惜しむばかりだからきっと何も手に入らない。

 いつだったか本で読んだ、間引きという単語が頭を過ぎった。たしか植物の育て方だ、いちばんしっかり育っているものだけ残してあとは引っこ抜いてしまう。栄養がそれだけにいくようにするためだ。

 ――僕は二人を守れるいい主人となろう。

 大事なことはそれだけでいい。あとはひとつひとつ、時間が掛かってでも捨ててしまおう。

 ウィルの転機だった。

 だからどうしても、このやりとりだけは忘れたくない。

 

 

 ※ 

 

 

 重いドレスの裾を捌いてウィルはバルコニーへ出た。

 その背後で弦楽器の演奏が始まるも、ウィルは振り返らなかった。貴族ばかりを集めた晩餐の席、その余興だ。男女が手に手を取って、踊り出す。

 ウィルは一曲だけ踊ってその場から抜け出した。幸いバルコニーは無人だ。

 そっと息を吐き出した彼の背後にはレイが控えている。

 今宵のウィルは、兄のおまけでくっついてきた貴族令嬢だ。つまり女装しているわけなのだが、声さえ出さねば違和感を持つ輩はほぼいないだろう。それくらい完璧な仕上がりで、ウィル自身も満足している。きっと若い頃の母親によく似ているだろう。

 だが今日の主役はウィルではない。

 ウィルの見た目がいくら天使のように愛らしくても、近づく対象の好みがそこからずれていては勝負以前の問題だ。

 そういうときはアッシュやレイの出番となる。

 ウィルの個人的な感情でいえば従者にそういうことはさせたくない。だが職務上そうはいっていられない。

「ウィル」

 耳元で名を呼ばれ、視線だけをレイに向ける。偽名でなく、わざわざ今ここで名を呼んできた真意が分からない。

 眉を顰めたウィルをレイは咎めるような目で見、少し突き出した唇を指先で突いてみせる。

 ウィルははっとした。知らぬうちに鼻歌を奏でていたらしい。

「心配しなくてもあの子はちゃんと仕事をしますよ」

「知っているよ」

 そんなことでいちいち不安になったりしない。レイもアッシュもよくできた従者だ。そうだと識っているから、昔みたいにちゃんと成功するだろうかなんて心配もしない。

 従者を信じて待つのも主人の務めだ。

「ウィル。あの子もわたしも、こんなことでくたびれてしまうような柔な心はもうしていません」

「……」

「ウィルと出会ってもう十年。わたしたちもただ手を焼かれるだけの子どもじゃない」

 そう言うと、レイがウィルの正面に回りこんだ。かつて見下ろす位置にあった少女の双眸も、いまでは変わらぬ高さにある。それだけの月日が経ったのだと思い知らされ、それは自分もそれだけの歳を重ねたのだということでもある。

 では自分は何が変わったのだろう。

「とらないでって言ったこと撤回します」

 いきなり何を言い出すのだと眉を顰めたものの、すぐ思い当たった。

 その昔、なかなか心を開かなかった彼女と交わした、約束。

『……ほんとに、とらない?』

 幼かったレイがずっと怯えていたことをウィルは知っていた。彼女の心は弟の存在に依存していたから。

 だから安心させてやりたかった。それが主人として、いや年長者である自分の務めだと思った。

「今言うこと?」

「手遅れになるまえに言っておきたかったんです」

 レイの言葉に、表情に、茶化すような雰囲気は無い。

「いいですか、あなたは私たちの主人だけれど、私たちの親でも兄でもない。この意味が分かりますか」

「なにを当たり前を……」

「いいえ、あなたは分かっていない」

 そこでちょうど背後にある会場の方で盛大な拍手と歓声が沸いた。一変した空気に二人の会話も途切れてしまう。

 それにどこかウィルはほっとしていた。

 一体自分が何を「分かっていない」というのか。指摘されてもとんと思い至らないのが恐ろしい。本当に分からないだけなのか、それとも自分は何か忘れてしまっているのだろうか。

 レイが懐中時計の蓋を開いた。

「そろそろ時間です」

 ウィルは頷いた。

 見計らったように足下に奇怪な文様が広がる。アッシュの魔法が発動したのだ。

 そっと会場を見れば、皆の視線は会場の中央に集中しているようだ。なにやら昨今の社交界の話題はある有名貴族の、長男坊の相手が誰になるかで賭けまでされているらしいし、そっち方面のことだろう。

 ……まあ賭けは無効になるんだけれどなあ。

 その貴族はウィル達が手を貸したことでこのあと失墜する予定である。

 文様が完全に広がりきったところで、視界に広がる景色が紙芝居のようにすり替わる。

 ウィル達は一瞬で今宵の宿へと戻ってきた。貴族が泊まるとは誰が思うだろう安宿である。

 やれやれと息を吐いて、ウィルはかつらをとった。

「化粧を落としたら寝る。アッシュが戻ってきても起こさないでいいから」

「……わかりました」

 かつらを受け取るレイが何か言いたそうに見えたが、ウィルは気付かなかったことにした。

 

 

 

「ウィル」

 耳元で呼ばう声にウィルの意識が眠りから俄に浮上する。

 誰だと薄目を開けて確かめようとして、己を見下ろす見知った顔に意識が一気に覚醒した。

 ……アッシュ?

 なぜここにいるのだ。がばりと寝台に身を起こす。

 起こさないでいいと、レイにはそう言った。レイはきっと弟に、主人に報告するのは明日でいいと伝えただろう。だから緊急時でも無い限りアッシュが夜中にウィルを起こしに来たことは今の今までない。

 そこでふとウィルは気付いた。

 借りた安宿は狭いが二間あり、奥の寝室に寝台は一つきり。主人であるからとウィルが使うことは泊まる前から決まっていた。

 いやそこはさておき。部屋の明かりは寝る前にウィル自身が消したから当然真っ暗であるはずなのに、どうしてこの目は暗がりでアッシュの顔がよく見えるのだろう。

「ウィル、終わらせてきました」

 常からの無表情でアッシュが淡々と告げてきた。

 はじめてそれを怖いとウィルは思った。

 安宿狭い寝室が三倍ほどの広さに膨れていた。壁や天井は果てなどないように境目が薄ぼんやりして見える。灯りが載っていたはずの側机は消えていて、寝台だけがこの奇妙な空間に取り残されたかのようである。

「……報告しにこいと僕が言ったか?」

 問えば、アッシュは頭を振る。

「それなら、」

「でも俺は、明日じゃ嫌だった」

 きっぱりと言い切る形で、ウィルの言葉は遮られる。こんなに強く物を言うアッシュをウィルは見たことがなかった。

 戸惑うウィルの方へアッシュが身を寄せてくる。ぎしりと寝台が鳴った。アッシュが両手と片膝を乗せたからだ。

 アッシュの方から微かに女の残り香が漂い、ウィルは無意識のうちに唇を噛んでいた。

 今日の任務は、暗殺手段の受け渡し。

 もっとざっくりいえば、一度きり使える魔法を授けてくるというものだ。目下滞在中のこの国では魔法は廃りつつあるが、死んではいない。アッシュの使う魔法はこの国の形式とは本来異なるのだが、どうも彼は自覚なしの天才のようでその壁を容易に乗り越えた。

「……嫌とか言われても困るんだけど」

「俺だってウィルの嫌がることはしたくないです」

「じゃあ、とっとと出てって」

「嫌です」

「嫌だ嫌だって、子どもじゃあるまいし」

「……俺を子ども扱いしてるのはあなたでしょう?」

 虚を突かれ、ウィルは黙り込んだ。

 数時間前にレイと繰り広げた会話が頭を過ぎる。じわりと嫌な汗が噴き出した。

「僕がおまえを子ども扱い?」

 笑えない冗談を言うな、と鋭く睨み付けても、アッシュの表情は不動だ。常からそうであるけれど、長い付き合いだ、多少の変化は読み取れる。けれどどうだ、からかうような色はどこにも見あたらない。

 いいや、アッシュという男はそも冗談を言う男でない。

 ああレイの言葉は正しかったのだと、ようやくウィルは理解した――ようでいて、まだここでは真の理解には至っていない。

「……悪かったよ、もう二十にもなるのに僕はお前を無自覚に枠に嵌めて見ていたんだな」

 今し方見出した正答を自分に染み渡らせるように、最後の方は独り言じみた言い方になっていた。

「俺は嫌じゃ無いですよ」

「え?」

「だってそれだけ俺を大事に想っていてくれるってことでしょう」

 アッシュの手がウィルの双肩に掛かる。

「なのに、こんなの初めてだ」

 覆い被さる影をウィルは呆けたようにみていた。

 静かに重なって離れて行く唇を、やり方など知らぬ訳でもないのに目を開けたまま、なされるがままであった。

「もう耐えられない」

 アッシュの眦から一滴伝い落ちていく。

 ウィルの口端がわなないた。

 ――嘘だろう。だって、捨てたって言ったじゃないか。

 なのに、ねえどうして泣くの?

 息苦しくて胸を押さえれば、アッシュが首を傾げた。

「ウィル? どうして泣くの?」

「泣く? 僕が? 泣いているのはそっちだろう?」

「俺? ……ほんとだ」

 己の頬を拭ったアッシュはおかしそうに笑った。子どもみたいなあどけない笑みに、ウィルの呼吸が止まる。

 ……笑った。

 作り物のぎこちないものでない自然に作られた笑みを。

 アッシュが笑うのを、ウィルは初めて見た。

 

 

 

 


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